いつか
前回の更新が11月19日か・・・
1カ月近くおサボりしてました。
どうも、ゆりこんぐです。
毎月、月が変わるごとにこんな事を言っている気がするなぁ。
いつかどこかで見たような気がする・・・、これが既視感というやつか。
慌ただしくはないけれど、そこそこ忙しい日々を過ごしております。
12月に入って、温暖なはずの静岡も冷え込む日々。
富士山もすっかり冬の装いとなり、カレンダーも残すところあとわずかとなりました。
今年一年を振り返るには少し早いけれど、今日ふと思ったことがあった。
どうやらわたしにとって、2019年は「物別れの年」だったようです。
こんないい加減な生き方は良くないと、自分から訣別した人もいれば、全く予想だにしていなかった人を喪うこともありました。
どんな別れ方をしても、「さよなら」は心がちぎれそうになる。
決して平気になんてなることはなく、ふとした瞬間に思い起こしては、涙が溢れてきたり、それでも愛おしい日々を思い出して少し笑ってみたり。
頑張ろうって思える日もあれば、思えない時もある。
わたしは愚かしいことに、「誰かがいなくなる」と言うことがどんなことなのか分かっていなかった。
それがどういうことなのか、知ってはいたけれど、決して分かってはいなかったのです。
バカだなぁ、と自分でも思う。
いつか居なくなってしまうんだ、ということがわかっていたら、悲しみや淋しさの奥にあるちょっとした後悔みたいなやつが少しはマシになっていたんだろうか。
それは分からない。
開けられなかったドアの先にある世界は、ないのと同じだから。
分かっていたとしても、同じくらい淋しくて悲しくて、きっと後悔するんだろう。
悲しみや淋しさというものは、いつか薄れていってしまうものなのかと思っていた。
居なくなってしまったという事実を認めて、受け入れて前に進んでいくことが正しいことなのだと。
でもきっと、何が正しくて何が間違っているとか、そんな風にはっきりと区切ることなんてできないんだ。
相変わらず悲しいし、淋しい。愛おしい日々を思い出してしがみついてしまう時もある。どうしたって手放すことができない。
どんな風に出会って別れても、想いは残る。
それでもわたしは生きてゆく。
いつか大切な誰かが居なくなってしまったとしても、明日を信じて生きていけるように、紛れもない今日を大事にして生きていくんだ。
出会ったことに、今まで過ごした日々に0を掛けたくないんだ。
どうしたって手放せないものに囲まれて、それでも明日を作っていくんだ。