1番の宝物は
ドラクエはプレイヤーの数だけ楽しみ方があって、そこが面白さの一つでもありますよね。
シナリオを楽しんだり、バトルに重きを置いたり、釣りなどのミニゲーム(もうミニゲームの域を超えてるよね!)を楽しんだり、プレイヤーイベントを開催したり。
運営側もこんな風に進化するとは思っていなかった部分もあるのではないでしょうか。
プレイヤーの数だけ楽しみ方があって、出会いもあって。おんなじくらい別れもある。
RADWIMPSの「最後の晩餐」て曲の歌詞に
「365個の出会いの中で」というフレーズがある。まさにその通りだと思います。
毎日が出会いの連続で、その出会いの数だけいつか訪れる別れ。
フレンドさんとの交流の中で、正直、「こんのクソフレがあああああああ!!!!休止しろ!」て絶縁状を叩きつけてやりたくなった事は何度かあるし、その逆で「あったけぇ、人間てあったけぇ」って思ったことは数え切れないくらいある。
いいことが数えきれないくらいあってよかったw
数あるお別れの中で、まだわたしの胸のおくのほう、柔らかい部分にしまってあるちょっとトクベツなお別れがある。
フレ切られた!とかそういうんじゃない。
よくある話で、休止ってやつ。
淋しくなってしまうのは、わたしの勝手。
でも、ふとした拍子にいろいろなことを思い出して、胸がつまりそうになってしまう。
その子とは、いろんな事をしていろんな話をしたよ。
いつもずっとべったり一緒だったわけじゃない。
たまに行きたい事、やりたい事が重なった時に一緒に遊ぶ。わたしもソロが好きだし、たぶんその子もソロが好きだったと思う。
お互いに付き合い方が似ている部分があったから、一緒に居て心地良かった。
全然連絡を取り合わない時もあれば、話し込んじゃう時もある。
よく畑の水を撒いてくれる子だったので、わたしのお庭だったり、その子のお庭でいろんな話をした。
頻度で言えば、遊ぶ回数は少なかったと思う。
でも、何かあった時。
例えばフレンドとギスったり、なんかちょっと違うって思った時。リアルで疲れちゃった時。
そういうお話が出来る数少ないフレンドで、後にも先にも出会えないんじゃないかって思ってる。
わたしにとってもそうであったように、この子にとってもそうだったら嬉しいかな。
ブログをはじめたのもこの子がキッカケかもしれない。
その子はよく日誌とかブログ書く子だった。
他の人とはちょっと違うブログ。
なんていうのかな。
ストーリー性があるブログで、その子の世界がしっかりと確立されていた。
その中で、その子が言ったんだ。
どんなに写真を撮っても、上限を超えてしまったら思い出アルバムから消えてしまう。ちょっとでも残しておきたいって。
その時は「?」だったけど、今ならわかるよ。
わたしたちはゲームを通して出会ったけれど、たしかに心通うやりとりをして、いろいろな想い出を作った。
写真一枚消えても、それがなかったことにはならないけれど。
やっぱり切ないよね。
ほぼ毎日、畑のお世話の履歴に載っていたのに、ある日突然、パタリと止んでしまった。
フレ欄にはいるけれど。
あれって思ってブログを読んだら「休止」の文字。
その時思ったのは「そっかぁ〜・・・」「でも体調悪いとかじゃなくて、良かったな」
・・・の後に、感じたのはぽっかりとした喪失感。
たかがゲーム。
そんな風に思ってしまうのは気持ち悪いことなのかもしれない。
でもやっぱり、フレンド欄にあるその子のアイコンがもう光ることはないのだと思った時、なんとも言えない淋しさはあった。
休止だからサヨナラではない。でも、いつ会えるかはわからない。いつ会えるのかわからない場所でしか、もう会うことはできない。
わたしの手元に残った一回分のお招きのつばさはまだ捨てられないかな。
誰かと「お別れ」した時によく「わたしたちがいるじゃないか!」って言う人がいるけれど、半分合っていて、半分はそうじゃない。
「誰か」が「誰か」の代わりになれることなんてあり得ないのだから。
誰も「誰か」にはなれない。
だからやっぱりお別れは切なく淋しい。
哀しみや淋しさは、そっと寄り添うことでしか癒えないのだろう。
ゲームなんて一部の人を除いて、趣味っていうか日々の生活の「余暇」の部分。
いわば人生の端っこ。
その端っこと端っこが重なりあってわたし達は出会った。
愛おしい想い出たちで溢れた日常。その日常を繰り返して出会って別れて、また出会う。
それでも人間は生きていく。
きっとドラクエ10のサービスが終了するか、わたしが飽きて辞めてしまったら、もう今のフレンドとは関わり合いがなくなってしまうと思う。
それでも。
淋しさや哀しさを抱えて歩いて行った先にもし再会できたら。
それがゲームなのか、リアルなのかはわからないけれど。
歩いて行った先に出逢えたら、それはとても素敵なことだと思います。
例え再会することができなくても、そうやって過ごして来た想い出たちが、宝ものなんじゃないかと、わたしは思う。