物語について考える
昨日、ようやくver4.5のシナリオをクリアしてきました。
遥か昔に滅亡してしまったはずのエテーネ王国の物語。
エテーネということで、珍しく人間子供で物語を進めます。
※ここから盛大なネタバレをしてます。
心の準備はいいかぁ〜〜!?
もうクリアしちゃった方・テキスト飛ばし読みスタイルだから気にしないという方だけどうぞ!
なんていうか・・・。
ん〜〜〜〜!
今回のシナリオはメレアーデの物語だったような気もする。
メレアーデの哀しみの物語。
最後に救いはあったんだろうか。
全員が全員100%救われる、というのは無理だとは思う。
その「物語」が「生きた物語」になるのか、「ただの絵空事」になってしまうのか。
この鍵を握っているのって、ひとえに「リアリティ」なんだと思う。
現実として、起こり得ることなのか。
これが現実に近ければ近いほど、我々は登場人物を身近に感じ、物語の世界へと埋没していく。
でも「リアリティ」だけでは、「物語」は羽ばたけない。そこに「希望」がなければ、「物語としての力」が薄い気がするんだ。「物語」を作る材料は「リアリティ」だけれど、「力」を与えるのは「希望」なんだと思う。
現実は辛くて厳しい。
だからこそ、「物語」の世界にはどこか「希望」を求めてる。
薄汚い現実の中に希望を見せるって、それこそ、「作り手」のセンスとバランス感覚と「いかに人生を生きてきたのか」みたいな姿勢が問われる部分でもある。
全員が全員ハッピーだったら、それこそ「絵空事」にはなってはしまうと思うんだけれど。
でもなぁ。
今回はちょっと、犠牲者が多すぎた気がするの。
誰かの犠牲の上で成り立つ誰かの幸福とか。
誰かが死んでしまって悲しいとか。
そういう陳腐な方法を使わなくても。
「生きた物語」を「作る」ことはできたんじゃないかなって思う。
誰かが誰かの犠牲になったら、それは悲しいし、一見「いい話だなぁ」って思う。
でも、そんな直接的な「悲しみ」を表現しなくたって、「感動した・・・!」て思える「物語」はたくさんあるわけです。
そうしてそういった「物語」は骨が太い。
ぱっと見は地味なんだけど、必ず最後は胸に響いて、忘れられない「物語」になるわけです。
誰かが死んで、傷つけられて「可哀想」な話は本当の物語じゃないんじゃないかって思ってしまった。
メレアーデの物語に、希望はあったんだろうか。自分の大好きな、大切な人達が居なくなってしまった世界に「希望」はあるんだろうか。
ここまで書いてしまって、「何かが違う」って行き詰まってしまった。
下書きフォルダに入れて、削除しちゃおうかなって。
でも夕飯の食器を洗ってる途中でふと、「メレアーデはそれでも「希望」みたいなものを信じたんだろうな」と思った。
大切な人達が守ろうとして、でも守りきれなくて託された世界に「希望」があるんじゃないかって。
「希望」が無くても紡いでいきたい、そう思って5,000年後の世界にエテーネ島を時渡りさせたのかもしれない。
そう思ったら、消化不良だったモヤモヤが少し晴れました。
メレアーデを主人公にした小説とかあったら面白いかもしれない。
まぁあっても買いませんけど。
書きたいことは他にもありますよ。
「イヤイヤ、死人が出すぎやろ!これもフラグか?死亡フラグなんか!?」
とか
「ワグミカかわい〜〜」
とか
「島ごとは無理すぎ。ていうかタイムトラベル系は矛盾が出るからやめろ」
とか
「ボス戦多すぎてしんどいィィィ」
とか・・・。
メレアーデとクォードの姉弟の絆とか。
エテーネのあの不思議な空の色。
あの色をメレアーデが見ることはもう叶わない。胸に秘めた哀しみが癒えることもない。
大好きな人達はもういない。
それでもどこかにある希望を信じて、生きていく。それがメレアーデの物語なのかと、そんな風に思った。